ざわつく時は

ここ連日のように、小さな子が虐待で亡くなるとか、

新幹線車内で通り魔的犯罪で死傷者がいらっしゃるとか、

理不尽に思える事件を耳にします。



こういう事件を耳にすると憤りを感じ、

犯人を断罪するような発言をしたり、

人によっては、その想いを

ネットに書き込んだりするかもしれません。



その気持ちはわかります、わかる。



事件の根っこは違えど、いずれも被害者になった方は

知る限りは落ち度がない。


5歳のお子さんだったり、

たまたま乗車していただけだったり。

なのにひどい!と。



理不尽な状況で今生を終えることになった彼らを、

「魂の約束」という側面から語るには、

感情が波立っていて(※)、まだ日が浅い気がします。



※7年前起きた東日本大震災について、

「東北の地に起きたのは、あの場に「光」があるから(?)

選ばれたのだ」というニュアンスのことを、

とあるスピリチュアルな仕事をされている方が発言し、

その場にいた方たちが同意していたのを見て、

スピ初心者の私は「それ、被災した方に今言えるか?」と
(この話題が出たのが地震後10日余り)

違和感を持った記憶があるので。

頭の理解と感情にズレを感じたのです。




一方、犯人に対しての憤りや怒りを、

不特定多数の場で流すことが、

一体どんな影響があるのかと考えた時、


例え一意見だとしても、ちょっと慎重になったほうが

いいのかもしれないと思ったりもします。



というのは、それを見た人の心に

ざわざわしたさざ波を残すこともあるでしょうし、


見た側心の状態がよろしくない場合は、

その波がさらに高く激しく

揺らぎを与えるかもしれない。



もちろん言論の自由は認められているし、

どんなことを感じるかは個人の領域なので、

外部がなんやかんやいうところもでないのは

重々分かってはいるのですが。



今回のそれぞれの事件は、どんな事情があれど

償いはしっかりやるべき(べき!)だと思っていますが、
(病気ならば治してから償えと思っています)


第三者が野次馬的に怒りをまき散らすのは、

あまりよい影響がないんじゃないかと。




怒りを感じることは別に悪いことではないので、


その奥にある「自分の何が反応したのか」を見る
(「自分の正義の定義」かもしれませんしね)


ここを意識したいと、感じたここ最近です。




心がざわつく時は、一時的に外部からの情報を

遮断することもひとつです。


そして、心が凪になるようなことを

集中したり、丁寧に行ったりして、

心穏やかな時間を過ごしたいですね。



では、この辺で。

2018年06月14日